君の目で僕を見て欲しい

ブラックジャック』(アニメ)の写楽ピノコ、『犬夜叉』(アニメ)の七宝、『ドラゴンボール』の子供時代の悟空・悟飯・悟天などなど、『ドラえもん』の登場人物、『名探偵コナン』の少年探偵団のメンバ、、、。
これらのキャラクタに共通するのは、一部天才もあるが、所謂、多くは凡才の子供キャラだということである。
例えば、『ブラックジャック』の漫画の方には、写楽は出てこないし(脇役で出たか)、ピノコもアニメ版ほど頻出していない。
では何故、アニメ版『ブラックジャック』には写楽ピノコがほぼ毎回出るのか。
子供が物語に触れる時、物語をどう読むか。
子供には、「ごっこ遊び」をする時期がある。身近な他人である両親や、テレビや本で見たキャラクタや役割を演じて遊ぶ。4、5歳の子供に多い遊び方、と言われるが、年齢で子供を分類するのは嫌いなので無視。
子供はごっこ遊びを通じて、その役割を観察する能力を鍛え、その役割のイメージをし、その役割の本質に触れる事で、具体から抽象を導く力を得る。
そういった中で、"主観のみの自己"から、"客観を含んだ自己"を見る能力を持つ。
多くの子供がそうだった。しかし、一部の子供は少し異なる。
ごっこ遊び」では無い。子供はアニメのキャラクタの人形を持ち、それを動かす事によって遊ぶ。自分は人形を動かしている存在であり、人形同士で行われる戦いを操作し、見つめるが、戦いそのものには関与しない。これは、役割を演じる「ごっこ遊び」とは全く異なる遊びである。
その遊びはゲームの画面を見ても顕著に現れている。
ゲーム画面内のキャラクタは、画面外の操作する者に姿(背中だったりデフォルメキャラだったり)を見せ、あくまでも、操作者とゲーム内のキャラクタとは違う、と意識する様に画面が作られている。
攻略本が売れる、というのは、ゲームをしたことが無い僕は不思議で仕方なかった。ゲームから攻略を取れば、一体何が残るのか、全く分からなかった。
ところが、人がゲームをする画面を見て理解した。ゲームはただテレビ画面に垂れ流される映像を追いかけるだけで良い、と分かった。攻略本が必要となる謎や選択肢やパズルは操作者にとって邪魔なものであったが、それを消せばゲームは映画か小説に置き換わってしまうので、ゲームの名残を残すために操作項目を残していた。
遊びもゲームも全て、自分が直接関与出来ない物語に触れてきた子供はどうなるか。
最近の親は、子供を叱る時、他人に押し付けて、誰々が怒るから止めなさい、誰々が何々だからこうしなさい、という様な言い方をするそうだ。
子供に他人を見せて、いきなり初めから客観を得させようとしている。叱られた子供は、自分が叱られるのは誰々のせいであり、誰々のために自分の行動が制限される、という考えを持つだろう。従って、自分に責任を感じていない。これが、昔と今の、叱る結果の違いだ。
そういう、常に自分が当事者とならない、初めから客観を押し付けられる環境が、所謂、責任を持てない人間を作っている。
責任を持てない人間というのは、最近の、曖昧言葉を使ったり、集団でしか行動できない愚かな者のことである。
これは、結果として愚かな人間が生まれたのであって、その人間に落ち度は無い。なので、非難する必要も無い。失敗作は失敗作として見れば良いだけの話だ。
ただ、この環境をそのままにして、失敗を続けるのは、何より愚かなことである。
ごっこ遊び」をやれ、と言っているのではなく、「ごっこ遊び」から子供が得るものを、他の方法を使ってでも得させるべきだ、ということである。だからと言って、中学生の職業訓練=「トライやるウィーク」は年齢から見て遅すぎるし、効率も悪いし、学校の授業放棄以外何物でも無いので、意味が無い。
最初に挙げたアニメに登場する子供キャラ。製作者側は、子供が見ているからという理由だけで特に深く考えていないかもしれないが、辛うじて昔から続いている、ごっこ遊びの材料となる素材である。
「大人しい子」「勉強は出来た」→犯罪→「ウチの子がそんな事をするはずがない」「理由が分からない」。何の不思議も無い構図である。だって、誰も当事者で無いのだから。