何故はてなブックマークのコメント欄が荒れるのか

例えば、自分が書いた記事に対して、はてなブックマークのコメント一覧が、以下の様になったとする。

2005年11月24日 foo 『[Web]成る程、まあ分かったかな』
2005年11月24日 bar 『[はてブ論]内容が薄い』
2005年11月24日 hoge 『死ねばいいのに』

記事の著者から見て、どのコメントに注目するだろう。
やはり、bar氏の「内容が薄い」に注目するのではないだろうか。
もしかしたらbar氏のはてなブックマーク登録の記事の中に自分の記事より内容の濃い記事があるのかもしれない、bar氏のはてなダイアリーにより内容の濃い記事が書かれているのかもしれない、と思うことは、記事の著者として自然だろう。
hoge氏の「死ねばいいのに」は明らかな拒否であり、やはりそれ以外の感想が得られない雰囲気を持つ。foo氏の「成る程」は、自分の記事を素直に認めているが、それ以外の感想が得られ無さそうな雰囲気がある。
評論家の評論は、対象のあら探しから始まる。それは、認める事は発展の妨げである、という事実があるからである。
何かに不満を持ち、その何かを改善する方法を模索し、不満を無くすことに邁進する。それが研究の姿勢の1つだと思っている。そして、そういう研究の数々が我々を豊かにしてきた。評論でも同じ事が言える。
例えば、小説の新人賞。毎回、多くの小説が様々な賞に応募されるという。しかし、実際にデビュを果たす新人小説家は1人居るか居ないかである。つまりほとんどの応募作品は落とされる。
落とされた応募作品だけでなく、賞を獲得した応募作品にも書評が付くことが多いが、多くは辛口、つまり、批判だろう。
外国小説のオマージュだ、キャラクタ性が薄い、ライトノベルの域を超えない、などなど、一般小説分野でもライトノベル分野でも、言われることは兎に角キツイ。
それらの書評は、決して作家潰しのために言われるものではないと思っている。
書評によって作家が、より良い作品に仕上げる事を目指し、努力をすることを期待している。辛口書評が無ければ、どこかで甘えるかもしれないから、尻を叩いておこう、という書評家の親心のようなものだと思っている。
だから、書評を含めた評論は、認める事よりも、誹謗中傷となるといきすぎだが、辛口・煽り・揶揄に分類される程度のレベルは認められるべきだ。
また、はてなブックマークのコメントは1行スペースなので、多くの事は書きにくい。1文か2文か、その辺が読み易さとしても限界である。
そうなると、やはり、自分が参照する時にも、プラスの評論(「成る程」「良かった」など)よりも、マイナスの評論(「内容が足りない」「誰々に比べると弱い」など)の方が、強く印象に残るのではないだろうか。良い思い出よりも、悪い思い出の方が記憶に残り易い様に。
エッセィを読んだ事のある作家を挙げると、村上春樹氏も森博嗣氏も自分の作品に対する書評は読まないそうだ。評論の存在は認めるし、それに評論の対象者が口出しする事は意味が無い、と書いていたと思う。
ブログなどで、誰もが昔に比べ比較的簡単に自分の意見を公開する事が出来る様になったという事は、誰もが発信側になったという事である。
今までは、本を読み、読書感想文を書いていた者が、突然作家になったと思えば良い。
発信側が生まれれば、当然受信側も生まれる。
受信には雑音が付く。その雑音は先入観や誤読である。今に始まったことでは無い。
問題なのは、発信者側の発信者たる姿勢が曖昧で、発信者が評論に対する防御なり、対策を知らない事である。