さらばヤマト

テレビ朝日で土日深夜に放送された『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を観た。劇場版を観たのはこれが初めて。

ヤマトは強すぎる。『機動戦士ガンダム』シリーズなら、『新世紀エヴァンゲリオン』なら、もっとその力の強大さに対して葛藤し、戦いの中で登場人物が悩んだ事だろう。悩んで悩んで、不殺とか逃げとかいかにも戦士らしくない決断をしていただろう(笑)。
ヤマトの攻撃力は凄まじいものだが、あの守備力の小ささは何とかならなかったのか。ラミネート装甲くらいは開発しておけと地球防衛軍に言いたい。
間が大きく多用され、『エヴァ』の『最後のシ者』でのカヲル君の首が落ちるまでの1分以上を何度も見せられているようだった。テレビが壊れたかとも思った。その間に敵に攻撃されるぞ、と思ったが、その辺はご都合。
森雪も真田志郎古代進も死んだ。十数名の生存者は大和に古代を残し、脱出。最後は雪を傍に置いた古代とヤマト自ら敵艦に突っ込み、自爆。
戦争を扱った物語である以上、神風特攻を思い浮かべざるを得ない。
Wikipediaを見れば分かるが、松本零士はこの結末を認めなかったらしい。
僕は、この結末に賛成だ。
ヤマトがあり続ける限り、ヤマトの戦闘は称えられるだろう。ヤマトとヤマトの乗員は英雄となり、戦いが美しく語り継がれるだろう。そして、再び戦いが起こった時、人々は、ヤマトを戦いに出し、ヤマトが戦いに勝つことを信じ、ヤマトの戦いが再び美しい物語となることを望むだろう。
それは戦いを肯定し、戦いを美しくする事である。死ぬ事が悲しいと同時に美しく格好の良いものとして見られる。そのような世界は否定しなければならない。戦いの無い世の中は美しい。だが、戦いを肯定する限り、戦いは存在する。存在を消すには、否定をしなければならない。
従って、ヤマトは消える必要があった。この彗星をヤマトの物語の最後の最大の敵として、ヤマトとヤマトの乗員を殺し、ヤマトはもう無い、ヤマトは自らの死で地球を守った、もうそのヤマトは無い、という事実を人々に叩きつけた。
それによって人々は戦いを、ただ美しいものとして見ないだろう。戦いによる損失は決して時間で取り戻せるものでは無いと理解するだろう。そして、戦いを否定するだろう。
こちらの方が、よっぽど「生き残って再建の苦しみを描」いている様に思えるのだが、直接描いていない以上、認められるものではなかったんだろう。考え方の違いだ。
後に作られた他の作品は、生き残る結末だそうだ。まるでパラレルワールド
想像補完が好きな者か、はっきりと描いてあった方が良いと思う者か。どちらにしても、ヤマトの物語はきっちりと終わらせるべきだろう。