性格が違うと言っても

爆笑問題カーボーイ』10月11日放送で、太田光が語った「とあるブログの「誰が太田光で書いたのか」という記事について」。
名前を一切出さなかった太田光は偉い。批評家との付き合い方をよく分かっている。
検索したらすぐに見つかった。Wikipediaにもちゃんと載っている。


わけあって、太田光中沢新一憲法9条を世界遺産に』を読む。これから書く本に役立つ部分があったが、途中に幕間として書かれた太田氏の文章がとくに気になった。ただし、読んでいると太田氏とは別人格が書いているという印象を受ける。これは、『日本共産党』を読んだときにも感じたが、読んでいて、本人との開きが大きく、その点で困惑するところがある。たしかに、誰でも文章が書けるわけではないなかで、本が作られていく現状ではいたしかたないのかもしれないが、文章の筆者はいったい誰なのかと考えると、それを決めにくい。
文章を書いている者に対して、非常に軽率で失礼な意見だ。撤回する気も修正する気も無い様だ。
文章の性格が違うからと言って、どうして他人が書いていると言えるのだろう。小説家の文体が変われば、他人が書いたと言えるのだろうか。ホラー作家が純愛文学を書いたら、他人が書いたと言うのだろうか。
こういう愚かな間違いは、1人の人は1つの性格しか保有していない、という間違った考え方を常識として持っているからこそ、引き起こされるのだろう。正しい常識を持つ者ならば、自分はこういう性格で、こういう性格であり続けなければならない、とは考えないだろう。複数の性格を使い分ける事が普通だ。
人は皆、複数のレイヤを重ねて自分を形成している。舞台や場所によって、レイヤの上下関係が変わったとしても不思議でも何でも無い。