命散文

何でも良いのだが、例えば数学の授業である公式を教わった時、もしもその公式を知らなかったら、という事を考えて欲しい。その公式を教わる数時間前か数日前の自分をトレースすれば良い。
その後に続くであろう、公式を覚えているか⁄使えるかという事を確認するために与えられる問題が、その公式を使わずに解けるだろうか、そもそも、公式を知らずに解こうと思うだろうか。自分よりずっと下の学年の生徒にその問題を見せれば良い。きっと、解けない、難しい、と言うだろう。問題を解こうという姿勢も意識も見せず、後に習う事だから今は分からない、と言う者も居るだろう。
悪い事では無い。教育という観点から見れば当然の事だ。
物事には順序がある。教育にも、教える順序がある。因数分解をするためには、式の中で使われるアルファベットの意味を知らないといけないし、掛け算と割り算の理解が必要だし、式の掛け算(展開)の理解が必要だ。
それら順序を飛ばしての教育は成り立たないし、例え、掛け算と割り算の理解無しに因数分解の問題が解けたとしても、恐らくそれは教えようとする因数分解の性質とは全く別のものだろう。
いじめと自殺。
いじめの解決方法がいじめられっこの自殺であるか。Noである事を我々大人は知っている。
しかし、もし、いじめの解決方法の選択として、自殺という選択肢しか与えられていなかったらどうなるであろうか。行き着く先は1つしかないのだからそこに行くしかない。自殺するしかない。解決方法としてそれしか知らない、教えられていないのだから当然の結果になる。
僕は中学生の時に生きている意味なんて理解していなかったし、死ぬ意味も知らなかった。自分が、生きている間は続き、死んだら終わる。精々その程度だっただろうか。23年生きて、何となく、生きている意味を見ている気がする。多くの本を読んで、多くの人に会って、生きている人に触れ続けている内に、生きるという事を理解しつつある。一方で、生きる事の対極である死についても少しずつ理解しようとしている。
生の全ても知らないくせに死を選ぶのは、死しか選択肢として浮かばないからだ。
生に意味が無いと思うのは正しい観察の結果などでは無い。細い筒の中から世界を覗き、勘違いしているに過ぎない。知らないくせに。何も知らないくせに。
死以外の選択肢を教えれば、選択の余地が出来る。死という選択肢を隠してでも良い。死という選択肢は、本当に最後に最後の選択肢にするべきなのだ。全ての選択肢をシミュレートなり実践した上で、如何しようも無い時に、その選択肢を選ばずを得ない状況になるのだ。
それは、生きている、世界を少しでも多く知っている者が、生きている世界で教えなければならない。嘘の世界で、ご都合主義の偽法則が蔓延る世界なんかで教えたって、それは虚構で理想にしか聞こえない。理解されない。
生が生を繋ぎ、死がそれを断つ。