霊能師と占い師

では何故、占い師または霊能師と呼ばれる、詐欺師またはペテン師がテレビに出るのか。
占いの歴史は古い。周知の通り、卑弥呼は占いによって国を治め、陰陽師は占いによって人々の悩みを解決し、政などにも大きく関与していたらしい。
今、彼らに関する資料を読むと、事実に即した記述のほとんどは科学的に説明出来る事象で、特に統計や天文学に関して、今なら常識として誰もが知っている事を、あたかも自身の能力によるものとして見せる事で、無知な者達からの信頼を得ていた。
「占い」を「裏無い」と書くとどうだろう。裏付けは無いが、信じたくなる、信じざるを得ない事、または方法を「占い」と呼ぶのでは無いだろうか。かつて平安朝廷では、陰陽師にこうしろと言われれば、それを疑う事無くそうしたと聞く。何故と聞くまでも無く、裏付けを望むまでもなく、無条件で(あるいは言い伝わる陰陽師の実績から)占いを信じる。
今の世の中、誰でも調べればある程度の知識を得る事が出来る。疑似科学を見抜く能力を持ち、情報の取捨選択をする方法を得る事が出来る。その能力を実際に持っているかは別の話。天文学も統計も使えない。しかし、というかそれゆえというか、雑誌の占いコーナは後を絶たないし、自分にしか見えないというものを作り出している者達が居る。前世の云々、誕生日と性別と星などをグチャグチャにかき混ぜたもの、などである。中二病邪気眼と同じ。
雑誌の占いコーナに、シルバアクセサリィを身に付ければ幸せ、と書いてあれば、そこにはほぼ例外無く理由が書いていない。しかしそれでも、幸せになる(かもしれない)と書かれれば、裏を求めず、試してみたくなる。それは人として自然な考えである。そうする事で、心の拠り所が生まれる事もあるだろう。しかし、それを試すのと信じるのとは、全く違う事を自覚しなければならない。
江原啓介や細木数子の言う事は嘘だし、出来れば現実に関与しない、『ガチンコ・ファイトクラブ』の梅宮かBL小説の登場人物の様に、観賞動物として扱われるべき存在なのだ。しかし、梅宮やBLと違い、江原細木はあたかも創作では無い様に振舞う。そこが、性質悪い。
占い裏無し、当たるも八卦当たらぬも八卦。信じるものでは無く、笑うものなのに、いつの間にかする方も見る方も、扱い方を忘れてしまった。忘れさせたのは、マスゴミか詐欺師か。