ユトリ鬼ごっこ

先日、大学の食堂でテレビを見ていたら、小学校の運動会らしきシーンが映っていた。そこで子供達は、薄汚れた赤色の俵の様なものを転がして走っていた。
音が聞こえなかったので画像からの推測でしか無いのだが、ああこれがゆとりの大玉転がしか、と僕は笑った。
俵は球よりは進行方向が定まり易いし、「みんな」が横一直線に並んで俵を押す事が出来る。球であれば押しているメンバの中で、ひたすら前に押す役、横から進路の先を見ながら玉の回転を調整し進路を修正する役、など自己責任と他人との協調の中で臨機応変に対応し競技しなければいけないが、そんな子供を作る事はゆとり教育の目的から外れる。俵転がしは絶好の演目だったろう。
テレビでは見えなかったが、きっと他のコースの俵が全て棒か短い紐で繋がっていて、競技参加者全員が横一列でゴール出来るに違いない。
足りないと思う事、負けたと思う事、不幸に感じる事、絶望する事、これらはそれぞれ、満たされている他人が居る事、勝った他人が居る事、幸福だと感じている他人が居る事、希望を持っている他人が居る事、がもたらす、自分と他人との交流、比較、摩擦によって生じる精神状態である。
その様な負の精神状態を自分にもたらさないためには、他人との接触を避ける事が有効である。
しかし、実際にそれはこの社会では不可能である。
従って、自分も他人も同じ精神状態にする方法を考えた者達が居る。同じ教育を受けさせ、同じ食事を与え、同じ順位を付けた。決して優越を与えず、決して劣等を与えず、同じ事が当たり前、違う事は間違いである、という思考回路を植え付け(ようとし)た。
もう、L.C.Lの海に溶けるしかない。