先生あのね

小学校、中学校、高等学校、と、学校という組織に入ればいつも先生が居て、我々はその先生が司会進行する授業を聞いて学校の中の学習生活を送ることが当たり前だと思っているから、先生が我々にものを教えることは当然であり、先生が我々にものを教えることが出来ることも当然だと思っている。
ところが、実際にものを教える立場になると、教わっていた立場で考えていたよりも難しいことに気付ける。気付かされるというか。
思うに、ものを教えることができる人というのは、その教えるものについて、失敗も成功も無く、挫折も栄光も無く、伝えるのではなく示すことが出来る人が向いている気がする。
失敗があればそれを醜聞として強調して相手に失敗をさせまいとするし、成功があればそれを美談として強調して相手に成功をさせようとする。挫折があればそれを悲劇として強調して相手に挫折を与えまいとするし、栄光があればそれを後光として強調して相手に栄光を与えようとする。
教えてもらう側からすれば、先人の失敗や成功、挫折や栄光など、他人事に過ぎず、他人の軌跡に過ぎないわけで、そんなところを強調してもらっては、理解の連続である学習に山と谷を作られて進行が困難になるだけで、迷惑極まりない。
むしろ、相手が失敗した時に、成功した時に、挫折した時に、栄光を得た時に、どういう態度を取れば良いか、最善で無くとも、先人として、教える側として、1つの道を示しながら他の道を照らすことが大切だろう。
教えるという行為は教わる側の能力があって初めて効果のあるものである。教える側だけの成果では無い。教わる側に効果が無ければ、それは双方に何らかの問題があるのである。

ある日の本郷の空
ある日の本郷の空 posted by (C)Yoshiyasu