幸喜劇

昨日に続き、フジテレビで三谷幸喜映画『ラヂオの時間』を鑑賞。

三谷幸喜は、短編、オムニバス形式が向いているんじゃなかろうか。
つまり、彼は、与えられた時間を単純に全体として見て、そこに入る適当な量の喜劇の要素を物語に組み込んで、設計をしているのではないだろうか。
「与えられた時間を単純に全体として」見ないタイプの設計者は、与えられた時間をさらに分割して、例えば2時間映画なら1時間前編後編に区切って、両編に山と谷を組み込んで、全体の物語を設計する。
ところが、三谷幸喜の物語はそういう設計には見えなかった。
そういう設計は、中弛みし易い。最後まで見ていられない。
キャラクタが分かりやすいのは、記号で解釈し易いから。振り回される者は振り回され続け、傍若無人の者は最後まで傍若無人に振舞う。そういうキャラクタは最後まで変わらないので、分かりやすいが、変化が無いため、山や谷を与える事は出来ない。
三谷幸喜にとって、2時間映画の尺は長い。無駄が多くなる。間延びした物語に見える。