被嫌忌対象生成計画

国分寺市役所

穢多(えた)や非人(ひにん)が、江戸時代の身分制度に於いて、差別の対象として設けられた身分である、というのは小学校の社会の教科書にも載っている有名な事項だろう。

つまり、支配をしたい身分よりも、下のレベルに差別対象を置いて、上のレベルに不満などを向けないようにする、というわけだ。「下には下が居る」。
たまたま、久しぶりに午後のニュースを見た。丁度、堀江貴文氏他を(再)逮捕というニュースだった。

テレビ曰く、「堀江貴文氏は容疑を否認。堀江貴文氏以外容疑を認めている」というものだった。
この報道を信じる者が何処にいるのだろう。「否認」も「認めている」も、テレビだけが語っている事であり、それが真実であるという保証は何処にも無い。
例えば、「堀江氏は否認」という事だけが事実で、「他は容疑を認めている」が嘘ならどうなるだろう。つまり、「誰も認めていない」。堀江氏がこの嘘の報道を聞いて、「畜生。周りが喋ったなら自分も話すしか無い」と思うかもしれない。そういう事を狙った嘘報道かもしれない。
僕がテレビのニュースを嫌うのは、報道を伝える側が意見をするからだ。「酷いですね」「悲しいですね」「頑張れ日本」……。こういう意見を発した時点で報道ではない。2ch風に言うなら「チラシの裏にでも書いていろ」。
マスメディアは、かつてテレビ界に混乱を与えた堀江貴文氏を、マスメディアから与えられる報道(らしきもの)を鵜呑みにする大衆を使って、社会で忌み嫌われる対象に仕立て上げようとしている。まるで、被差別身分と同じではないか。
与えられた情報が全て、とするのではなく、その情報から何を類推出来るのか。それを考える事が、情報社会で生き残るための手段の1つだと思う。