物書き

そもそもネットワークの上では文字情報によるやり取りが昔からのデフォルトで、メールを書き、掲示板やチャットに参加し、ブログを書き、以前より文字を書く機会が増えた人が多いと思う。
輪講で8ページの資料を提出しないといけないのだが、1ページは参考文献に使えるとしても7ページ。卒業論文がプログラムリスト合わせて100ページだから、それに比べて遥かに量は少ないが、それでも難しい。
プレゼンテーション用スライドと違って、文章を書いているので、伝えたい事を伝えられているか、書いた時点では分からないこともある。エディタ上で気付いて書き直すこともあれば、一度印刷してゲラ読みで気付くこともある。代名詞を頻発すると何の話題なのか忘れられる可能性がある、接続詞を多用するとうざい、段落を区切り過ぎるとまとまりが無くなる、などなど気にしている事はいくつもあるものの、書いている時には中々気付き難いものだ。
良い文章というのは、目で読んでも声に出して読んでも、滑らかに読める文章だと思う。流れとかリズムとか山と谷の織り交ぜ具合とか。

柏の葉キャンパス周辺がうるさくなるそうで

秋に映画館が入っているららぽーとが建つそうで。
とりあえず大型書店は嬉しい。漸く、自転車で気軽に行ける範囲内にまともな本屋が来る。これで、生協でライトノベルを1冊だけ注文するという恥ずかしい行為をせずに済む。
LOHASとか、死ねばいいのに流行を取り入れているらしい。

人の下に人は居るか

……。
下ばかり見て、「最低限は出来ているんだから問題無い」とか言い出す馬鹿が出てきそう。
テレビで凄い人(凄い数学の先生とか凄いスポーツ選手とか)を見て、それを目指す、という考え方は個人主義実力主義には無いのでしょうか。
僕は小学生の時、大槻義彦先生をテレビで見て、本を読んで、理系の道に進む事を決めたと思う。ビートたけし大竹まこと舛添要一も見たが、芸人にも政治家にもなろうとは思わなかった。子供ながらに、大槻先生みたいに研究の生活がしてみたい、とか、専門家と言われたい、とか色々考えていた。一応、今はその結果だ。正確には過程だが。
下を見ながら歩めば、こうはならなかっただろうなと思う。通っていた小中高は全て公立で、玉石どころか石石混交な場所だったから。
教育ってのは、隠す事じゃなくて、示す事だと思うんだけどな。