日本がワールドカップドイツ大会優勝

やはり2本足のロボットには、夢がある。
ただ、飛行機の尾翼を鳥に倣い後ろに付けた事が力学的には合理的でない様に*1、2本足のロボットがロボットがすべき仕事に合理的かと言われれば、必ずしもそうではない。
というわけで、自然に存在するものに似せる、という方向は正解とは限らないのだけれど、自然を創造した大きな力を真似る行為が、少し楽しい。

*1:ライト兄弟が作った飛行機は尾翼が前にあった。

見苦しいかどうか

似た様な事を思っている人が居るものだ。
僕が初めて携帯電話を持ったのは2001年12月末。2005年9月まで同じ機種を使い続け(oneではなくit)、漸く世間の波に乗りカメラ付き携帯電話を持った。
他人が携帯電話を操作する姿勢が、見苦しかった。だから、僕も同じ姿勢で携帯電話をいじっていると思うと、使う気にならなかった。今でもその感覚が抜けず、携帯電話をカメラ用途以外に積極的に使う事はない。電車内でもバス内でも待っている時でも、外を見ているか頭の中の会議室で雑談をしている。
他にも、みっともないと思ったり、見苦しいと感じたりする事はよくある。1日に1つ以上はある。サイズが1GB以上の修正パッチなんて見苦しい。こういうトラブルが無ければ純粋にゲームの評価が得られるのに……。
好き嫌いを主張する事はある。嫌いなものに出くわした時、自分に危険が及ぶ可能性があるからだ。だが、認める認めないを主張する事は少ない。認めないものに出くわしても、危険は恐らく無いであろうことを経験として知っているから。数直線上に並べると、「好き—認める—認めない—嫌い」という具合だろう。
きっと他人が僕に対して嫌いだったり認めていない箇所があるだろう。けれど、僕は僕の凡その箇所を認めている。個人の価値観に依存する話。

さあ驚け

叙述トリックだ」と言われてから読む(見る)時もそうなのだが、「ミステリィだ」と言われてから読む時も、大抵は、そうかミステリィなのか、よし謎を見極めてやるぞ、と気合いを入れて読む。
ふと、「ミステリィだ」と言われずにミステリィを読めばどんな気持ちで読むのだろうかと思った。そもそも「ミステリィだ」と言われずに読む事が難しい。あのレーベルはミステリィ寄り、とか、あの小説家はミステリィ作家、とか、作品の中身を読まなくても伝わってしまう。
乙一の小説を読んだ時は、割と衝撃的で、叙述トリックを非常に楽しめた。挿絵まで使って叙述トリックを展開したものを読んだのは、乙一が最初だった。しかもライトノベルレーベルの若者作家。驚いた。
騙されたいわけじゃない。先入観を排除するのも、時々は良いのかも知れない。