テレビがつまらないらしい

ところで僕は人の顔が覚えられない。目の数や小指の有無が人の判別の頼りになる事は少なく、処世術としては、眼鏡の有無だとか仕草だとか服の色合いだとかで覚える事が多く、輪郭はあまり頼りにならない。絵や写真を見て、「色が多い(少ない)」とよく言うのはそういう理由による。
幾つかWebサイトを巡回していると、そのサイト管理人というか執筆者のイメージが分かってくる。こういう話題を取り上げやすいな、とか、ノリの雰囲気がこんなだな、とかそんな感じ。そのイメージに形は無いし、明文化もし難い。
僕が見るテレビ番組は限られている。アニメを除けば、月/火/木/金曜23時過ぎのテレビ朝日のバラエティ、『ナイナイサイズ』、『ガキの使いやあらへんで』くらいだろうか。
そういった番組の中で、芸人(あるいは芸無し芸人)が登場し、自身のキャラクタを表しているのだろうか、まるでお決まりのフレーズ、持ちネタであるかの様な言動を取る。
しかしながら、他のテレビ番組を見ていない、その芸人を知らない僕は、彼等のキャラクタを知らないので、そのネタの良さも価値も理解出来ない。例えるなら、ライトノベルのある作品で他作品のパロディネタが載っていたが、その元ネタを知らないが故に(気付かず)スルーしたものの、2chのスレを見ればその箇所で盛り上がっていた、という感じ。
昔の話をするとおっさん臭いがまあ我慢。
昔のテレビ番組は、出演者の(それまでに培ってきた、積み上げてきた)キャラクタなんて考える必要はなかった様に思う。その時間に放送されているその番組だけを見れば、出演者はその時間のその番組の中だけで面白さを作り上げ、前の時間の事を引き摺ったり、後の時間に回したりしなかった。または、僕はその番組を見ているのであって、その出演者を見ていたのでは無かった様に思う。彼等が作る面白さは、番組のための面白さであって、彼等自身の面白さの履歴書を埋めるためでは無かったと解釈していた。
今のテレビ番組は、僕が見ている限られた番組から解釈しても、番組のためでなく、出演者のキャラクタのために作られている感じが伝わってくる。そして、大して形成されていない、色も決まっていないキャラクタに乗っかる様に番組を作るものだから、すぐに壊れ崩れる。そんな番組に面白さも魅力も無い。
作る環境も、見せる環境も、見る環境も、傲慢に停滞し怠惰に劣化した結果が、今のテレビ。

50年後の未来

FlashばりばりのWebページで、音も鳴るので注意。
はてなブックマークのプッシュ能力には感心する。
8月8日(水曜)から8月10日(金曜)までの毎日、22時10分から23時まで、BS1で放送予定。

  1. 第1回:マイクロチップが管理する医療
  2. 第2回:サイバーテロに狙われる電脳都市
  3. 第3回:世界の命運を握る新エネルギー開発

そそるタイトル揃い。第2回なんて、『攻殻機動隊』だろ。
見たいが、アパートではBSが映らない。

内山君の女性関係

女性に現金50万円を渡す内山とか、浮気をする内山とか、最近肉体関係のない女性と同棲する内山を想像してフイタ。
大人になるって嫌だなあ。

マスコミの2ch叩き

テレビを見なくてもこういう情報が入ってくる様になって、全く良い時代だ。
さて、テレビなど既存メディアがWebを叩く時には、自分達と比較する場合が多い。
例えば、Webは誰でも書き込めるから嘘が蔓延している、だとか、無価値なコンテンツばかり、だとか、汚い罵詈雑言が並んでいるだけ、だとか。一方自分達はどうかというと、正しい報道である、だとか、社会的に認められている、だとか、そういう風に色々棚に上げながら自分達を褒め、Webを貶す。
何故そうするかと言えば、Webが自分達既存メディアを壊す可能性があるからだ。Webはテレビにも新聞にも取って代わる事が出来る可能性があるからだ。
だが、Webに居る人達の殆どは、そうは考えていない。例えばYouTubeは、テレビに代わるものを作るなんて意識から始まったわけではないと思う。テレビとは全く違うメディアであり、違う流通方式、違うコンテンツを持ち、それが結果としてテレビより価値のあるメディアとなれば、そういう流れだったんだなと思える、という程度だったろう。
しかし、テレビを含めた古いメディアはYouTubeを恐れた。ビビって漏らした。だから、YouTubeを「第2のテレビ」、あるいはテレビに取って代わるのではないかとわざわざ煽った後、画質の荒さ、その法を無視してアップロードされた日本の動画コンテンツを強調して見せ、ほら駄目だ、テレビの地位は不変だと吠えた。
2chは全ての人が対等に対話できる舞台であると同時に、ジャーナリズムの舞台である。しかし、それを古いジャーナリズムは許さない。だから彼等は、足を震わせ顔を真っ赤にして汗をかき歯を軋ませ荒い鼻息を吐き指を震わせながら、2chの粗探しをする。
劣等感がどうした。見栄張りよりも嘘吐きよりも盲目よりも、よっぽどマシだ。

ひゅーひゅー

別に、ファンでも何でもないし、時々知念里奈と混同するし、進んで歌を聴いた事はなかったが、「桃の天然水」のCMに出ていた事は何故かしっかりと覚えている。
こうして、僕が小中学生だった頃にテレビに出ていた人達が居なくなる事は、時代の流れを感じさせる。
女は特に、疲労とかストレスが顔に極端に出るから怖い。

ドラマ版LIAR GAME

所謂、ゲーム理論の一種である協力ゲームをネタにした漫画のドラマ版『LIAR GAME』を、最終回だけ見ている。第1話からダイジェストで見せているので、すんなり入れた。
漫画版と些細な事が違うのは、まあテレビによくある仕様の様なものなので、気にしない。
あ、漫画版の先まで進めやがった。
僕は、ドラマとか映画とか実写ものを見る時、登場人物が少ないもの、登場人物の判別がし易いものしか見ない。見られないとも言う。
というのは、実写の人の顔の区別がほとんど付けられないからで、例えばこのドラマ版『LIAR GAME』の神崎直が、映画版『DEATH NOTE』の弥海砂だと言われても、全然分からない。
別の作品に出ていれば確実に、同じ人だと言われても分からないし、違う人だと言われても分からない。同じ作品でも、喋り方とかアクセサリに極端な特徴があれば区別が付く。服が替わると分からなくなる場合が多い。連続ドラマで5話ぶりに登場、と言われても大抵分からない。
時々人にこの話をして、この感覚が伝わる人よりは伝わらない人の方が多いので、まあそういう事もあるという感じで。実生活に影響があるかというと、稀に困る事があるが、大抵は他の能力を活かして補完して上手くやっている。
ドラマ版『LIAR GAME』は、みんな登場人物に特徴があって、とても見易い。この前最終回になった『時効警察』も、というかあのテレビ朝日金曜深夜帯のドラマはどれも、毎回登場人物は限られ、それぞれに特徴があった。
漫画とかアニメばかり見ているからそうなったのか、だから漫画とかアニメとかを見ているのか。
小説を読んでいても、登場人物の風貌に関する描写があれば思い浮かべるが、全て2次元調になる。芸能人とか有名人とか誰か知っている3次元の者に似る事はない。誰の顔も覚えていないから。
街で知り合いに偶然会ったとしても、僕はそれに気付けない。無視しているんじゃ無いんです。
うわあ。原作未完にありがちな投げ遣りな終わり方。